遠州福田六社神社祭典 浜松まつりの屋台と彫刻
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遠州地方の唐破風造り屋台を手がけられている職人たちを、大工さん彫刻師さんに分けてご紹介します。全て私が訪ねてお話を伺い写真も撮っており、外部リンクもあります。

《ご参考》
浜松百撰1972年5月号No.174「屋台特集」PDF~同撰編集部さんの許可を得て掲載


工務店 / 大工

熊谷建築
2003/02/17撮影棟梁・熊谷仁志(くまがいひとし)さん。1950年(昭和25年)磐田市中大原生まれ。子供の頃から手先が器用で木が好きだったことから大工を志そうと、中学を卒業して親戚筋にあたる磐田市天竜の田中由男棟梁に弟子入りした。昭和60年に独立し主に住宅を手がけてきたが、地元の屋台建造を依頼され、平成6年に見事「矯風社きょうふうしゃ」を完成させた。
「やはり4輪の破風造りの屋台が好きだね。携わっているとわくわくしてくる。限られた予算の中で工夫して、見た目のバランスがとれる屋台になるよう心がけた」という。また昭和63年の福田/い組屋台修理時には、掛塚横町の平野道男棟梁から依頼されて解体・組み立てに協力している。旧福田町では石田組を製作。
関連ページ
矯風社 石田組 中泉西新町 屋台修理

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天峰建設
2003/02/17撮影棟梁・澤元教哲(さわもとみちのり)さん。1958年(昭和33年)水窪町出身。周智郡森町の職業訓練校を昭和48年に卒業後、磐田市鎌田の奥田建築に入社。18歳のときに鎌田神明宮の大遷宮(60年に一度)に携わったのがきっかけで寺社建築に興味を持ち、浜松市中野町の宮大工・故菅沼照二氏のもとで勉強をした。昭和54年に「住建さわもと」を創業、昭和63年に「株式会社天峰建設」に組織変更。寺社建築専門で仕事を請けており、祭り屋台は平成7年の磐田市長江地区屋台をはじめとして現在までに9台の実績がある。平成7年11月に県優秀技能者として表彰されており、平成15年11月には厚生労働省から現代の名工に選ばれている。
磐田市天竜の田中棟梁とは磐田建築組合の仲間であることから、屋台造りの唐破風施工などで技術協力を受けている。

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田仲工務店
棟梁・田中由男(たなかよしお)さん。1930年(昭和5年)9月周智郡春野町領家に生まれる。15歳の時に名古屋の陸軍にて終戦を迎え帰郷、その年の12月に当時掛塚の警察に勤務していた兄の紹介で掛塚横町の堂宮大工・平野孝棟梁に弟子入りをした。「ヘマをするとすぐにげんのうが飛んできた」という厳しい指導環境の下で腕を磨き昭和30年に独立、磐田市天竜に田中工務店(後に田仲工務店に改称)を構える。
福田では昭和26年「奴連」、昭和29年「ひ組」に弟子として携わり、また昭和63年「こじま」屋台の購入に尽力、平成12年には修理も請け負っている。平野流を踏襲した伝統工法による屋台造りには定評があり、2006年には建造100年を迎える掛塚「横町」屋台の大修理にも腕をふるった。
2011/12/24引退、2013/09/23逝去
外弟子=磐田市大原・熊谷仁志さん
内弟子=磐田市海老島・新川典明さん
2001/07/28_周智郡春野町平尾地区「有声社」屋台解体
2004/09/19_「昭和組」ミニ屋台制作
2006/09/17_掛塚横町の屋台組立て
2009/05/24_磐田市堀之内新屋台披露
2009/08/30_「い組」屋台組立

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新川建築舎
棟梁・新川典明(にいかわのりあき)さん1974年(昭和49年)磐田市生まれ。
平成2年に浜松市内の大工棟梁に入門。平成8年に磐田市天竜の田中棟梁と出会い屋台技術を学ぶ。以来家業の新川建築舎として住宅建築と平行して祭り屋台にも携わってきた。平成18年の掛塚横町・百年目の大修復には脇棟梁として活躍し、以後の保守点検も任されるなど横町からの信頼も厚い。2011年末の田中棟梁引退後は後継者として屋台業務を引き継いで見積もり・施行を全て行っている。また掛塚横町の平野本家からは平野流を名乗ることを認められており、平野流棟梁としてこれからの活躍に大きな期待が寄せられている。
2004/09/19_「昭和組」ミニ屋台制作
2006/09/17_掛塚横町の屋台組立て

2009/05/24_磐田市堀之内新屋台披露

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福井建築
2003/03/14撮影_磐田市中泉2253-1棟梁・福井久雄(ふくいひさお)さん。1931年(昭和6年)に磐田市御殿に生まれる。学校卒業後大工の道に進み、市内坂上町の内山工務店に弟子入りし昭和41年に独立。住宅建築一筋だったが、昭和55年完成の地元御殿の屋台を内山工務店が請け負ったことから花屋台新築の方を任され、地元の大工と協力し合って完成させた。この仕事が縁で同じ町内の牧野製材所(有)・牧野慎司氏(2002年1月に79歳で急逝)と組んで屋台を造るようになる。祭り好きで交友の広い牧野氏が屋台の注文を受けて材料も用意し福井氏が造るという役割だが、屋台建築は独学。「いろいろな屋台を見に行ったり専門書を読んで研究した。自分で請けた3台を含めて今まで15台ほど造った。牧野さんとはいい仕事をさせてもらえたよ」という。
2007/06/27_恵比寿屋台の経緯
旧福田町では塩新田・中野連

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古田社寺屋台建築
棟梁・古田正孝(ふるたまさたか)さん
2015/03/28_訪問記(JA記事含む)
2015/09/20_磐田市駒場新屋台披露

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大城総建
2003/05/01撮影棟梁・大城勝久(おおしろかつひさ)さん。1948年(昭和23年)浜北市中瀬に生まれる。当時浜松市幸町の職業訓練校を卒業して同市高林町の宮本工務店に入社。4年の修行の後独立し住宅専門に仕事をしてきた。地元中瀬6区の祭り屋台を依頼されたのがきっかけで、独学で屋台建築を研究し平成5年に完成。その実績を買われて翌平成6年浜松市笠井町西町、以降竜洋町平松、中瀬8区(2003/05/01現在製作中)と4台を手がけている。「最初は他所の屋台の写真を撮ったりして見よう見まねで始めたが、とにかく奥が深い。やりがいのある仕事なので、昔の職人のいい仕事をよくみて研究したい。特に唐破風は試行錯誤の連続です」と意欲的に屋台製作に取り組んでいる。
旧福田町では南田

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秀志工務店(ひでしこうむてん)
2016/05/08_磐田市合代島新屋台披露
2023/03/19_浜松市飯田町屋台新造
タウン情報はままつ平成5年3月25日号(同編集部さんの許可を得て掲載)
砂子秀志さん制作のミニチュア御殿屋台(大得工務店HP)


小池工務店
棟梁・小池 清(こいけきよし)さん。1929年(昭和4年)小池佐太郎氏の次男として掛塚中町に生まれる。旧制中学卒業後、東京の親戚の材木問屋に就職。1年後に帰郷して父・佐太郎氏のもとで大工の修業を始める。26歳で独立し仕事の多い浜松市名塚町に小池建築を構えた。朝バスで掛塚から仕事場に通って来る父を夕方車で送るという生活を16年続けたという。
昭和46年、病気の父の後を受け継いで完成させたのが浜松市植松町の屋台。以後も遠州地方の祭り屋台を数多く手がけ、伝統工法による本物の屋台造りは他の模範となっている。
平成元年に法人化して(有)小池工務店となり、また平成4年には浜松市まつり会館展示屋台を完成させ、同年に浜松市優秀技能者に認定されている。右の写真は平成10年、福田「本町連」屋台修復記念式典でご挨拶されたときのもの。
旧福田町では南島・十五番町
関連ページ
2015/09/27_浜松市参野町新屋台
2012/09/09_浜松市西区志都呂新屋台
2012/03/04_浜松市佐鳴台新屋台
2010/12/10_新社長・小池孝之氏に聞く
2009/03/29_浜松市南区三島町新屋台
浜松市公式YouTube 浜松市御殿屋台

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近藤建築(浜松市浜名区新原)
2022/06/19_浜松市西区 志都呂西組新屋台


宮又木工訪問記2008/05/01


飛鳥工務店
2003/02/17撮影棟梁・鈴木鉄雄(すずきてつお)さん。1955年(昭和30年)大東町生まれ。小学校一年生のときに大工だった父親を亡くし、15歳で中学を卒業すると浜松工業高校の定時制に通いながら兄の後を継いで大工の道に進んだ。21歳のときに見かけた地元の宮大工の仕事ぶりに関心を持ち、大東町の富口社寺建設に弟子入りして修行を積む。その後26歳で独立創業、平成7年に飛鳥工務店と命名し法人組織化して現在に至っている。
「屋台は後々まで評価されるので、納得してもらえるいい仕事をして信用を積み重ねていきたい。伝統への挑戦です」という。息子の祐氏を将来立派な棟梁にしたいとの願いから二俣の天竜林業高校を卒業後、かねてより尊敬している日本一の宮大工・故西岡常一棟梁の外弟子である建部清哲氏に弟子入りさせ、後継者育成にも期待をかけている。
福田では2代目む組
関連ページ
2004/12/26_「む組」屋台仮組み披露
2005/09/21_「む組」屋台完成披露
2012/03/18_「新田組」屋台披露

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安間工務店
2003/01/18撮影棟梁・安間紀雄(あんまのりお)さん。1943年(昭和18年)に遠州森町に生まれる。中学を卒業して浜松の建築職業訓練所を第一期生として卒業。安間工務店は明治31年に祖父安間徳太郎氏が創業、昭和11年に父宇太郎氏が継承し、平成2年から紀雄氏が3代目として事業継承している。社寺建築・注文住宅を数多く手がけ、特に祭り屋台は宇太郎氏の代から数えて平成15年完成の掛川市倉真一区の屋台で50台目となる。
「まず神社の由来から調べ、伝統技法と材料にもこだわりながら各町内の特色を出すよう工夫していますよ」という現代的感覚を取り入れた屋台造りが評価され、平成13年11月に県優秀技能者として表彰されている。
福田では天狗連・港連

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家本工務店
2003/02/01撮影棟梁・家本豈佳(いえもとやすよし)さん。1941年(昭和16年)周智郡森町牛飼に生まれる。学校を卒業後袋井市三川の大工さんの下で5年間修行をして二十歳で上京、7年間の建築修行の後帰郷して工務店を構えるようになった。注文住宅から社寺まで幅広くこなしており、祭り屋台は昭和51年に地元牛飼の屋台を手がけたのがはじまりで、現在まで10台を製作している。旧福田町内では祭り屋台のほかに平成6年(1994)長池の大頭竜神社、平成9年(1997)五十子の藻山神社建築も手がけている。
旧福田町では旧新田組・大原

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寺田建築
2014/06/01_磐田市大泉町新屋台披露


平野建築工業
2003/02/01撮影棟梁・平野金四郎(ひらのきんしろう)さん。1931年(昭和6年)遠州森町城下に生まれる。終戦後の昭和21年に大工の修行のため、愛知県幡豆郡一色町の親方の下に弟子入りし、10年間修行を積む。帰郷した後も東京へ出て神田の神輿大工さんのもとで1年間宮大工の修行をした。
祭り屋台は、昭和34年の伊勢湾台風で破損した掛川市下垂木の屋台修復依頼されたのがきっかけで、その後昭和45年完成の袋井市掛之上(かけのうえ)の屋台を第一作として、現在までに10台製作している。この内4輪の唐破風造り屋台は福田の2台で、他は2輪屋台である。
「屋台はその町独自の文化財なので、同じものにならないよう気を配って造りますよ」という。現在は息子の成一氏が代表取締役として活躍中である。
旧福田町では旧石田組・ほ組

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山本建築
2003/01/21撮影棟梁・山本和夫(やまもとかずお)さん。1943年(昭和18年)に遠州森町に生まれる。中学を卒業して浜松の建築職業訓練所を第一期生として卒業後、父庄平氏の仕事を手伝うようになった。同じ森町の安間氏とは同級生である。祭り屋台は昭和62年完成の地元栄町・藤雲社が最初で、以来遠州地方を中心に高欄式2輪屋台や唐破風造りの4輪屋台を精力的に製作。また3年に一度の大祭で有名な藤枝市の祭礼屋台も3台手がけている。「屋台は2輪でも4輪でも、各町に合っていて安全で曳きやすく造ることを心がけています」という。
平成15年現在は通算33台目となる榛原町静波の屋台を製作中。これは柱間口6尺の唐破風造りの屋台で、正面に舞台がせり出す独自の構造をしており、あらゆる努力と工夫で施主の要求に応える屋台造りをしている。
旧福田町では北連・小島方

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車鍛冶:辻村勝三さん
タウン情報はままつ編集部さんの許可を得て掲載

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彫刻師

雨宮國雄(あめみやくにお1949-)
雨宮國雄号=一行(いちぎょう)
昭和24年(1949)9月東京都江東区生れ。高校卒業後、専門学校を経て航空写真測量の会社勤務。23歳のときにテレビで紹介されていた井波彫刻に憧れ彫刻の道へ進むことを決意。井波の高田乾行(たかだけんぎょう)師の下で3年、飛騨高山で一位一刀彫を2年独学、京都の仏師の下で5年修行したのち遠州へ移り住んだ、浜松市天竜区二俣町阿蔵・玖延寺(きゅうえんじ)の雲中供養菩薩像6体を手掛けたのが最初の仕事となる。専門の仏像の注文をこなしながらこれまでに19台ほどの祭屋台彫刻を手掛けている。
→2013/05/01_訪問記

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井口寛臣(いぐちひろおみ)

→2005/02/22訪問記


池島康輔(いけしまこうすけ1983-)

→2022/11/27訪問記


伊藤章晴(いとうふみはる1951-)
伊藤章晴号=章晴(しょうせい~本名の音読み)
昭和26年(1951)三ヶ日に生まれる。地元の高校を卒業後就職したが、20歳の時に新聞で紹介されていた井波彫刻(富山県)の特集記事を読んで彫刻に興味を持ち、二代目南部白雲師の門を敲き入門、井波で修行することになった。丸6年の修行の後、故郷の三ヶ日に戻り彫り師としての活動を始める。弟子はとらず下絵から彫刻仕上げまでを一人でこなし、人物・龍・獅子など丁寧で繊細な作風に定評がある。引佐郡三ヶ日町鵺代在住。
平成28年(2016)静岡県優秀技能者を受賞
平成29年(2017)厚生労働省/現代の名工に認定
平成30年(2018)黄綬褒章受賞
福田では昭和組,天狗連,港連
→2002/05/01_訪問記
→2004/07/18_磐田市豊岡 敷地新屋台
→2012/03/04_浜松市佐鳴台新屋台
→2013/06/23_鹿嶋市の山車彫刻製作他
→2015/06/05_訪問記(YouTube)

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浦部一郎(うらべいちろう1907-2001)
浦部一郎号=清風、松寿
明治40年、豊橋市嵩山町の農家に生まれる。大正10年に建立された地元の正宗寺・唐破風造り山門を見て大いに感動。翌年小学校を卒業すると、この山門の作者である高須宗信に弟子入りした。修行中の昭和4年に浜松市「八幡町」の屋台彫刻を手がけたのが遠州の最初の仕事で、同年完成の同市「野口町」の屋台彫刻は師匠の高須作といわれる。(両屋台とも戦災を免れ活躍中)
約9年間の修行を終え昭和5年に浜松市利町に新居を構えて独立、以来堂宮・祭り屋台を手がけていくようになる。昭和19年名古屋へ徴用して終戦を迎え、昭和24年に浜松市元魚町に住居を構えた。以来浜松を中心に遠州地方の祭り屋台彫刻を精力的に手がけ、平成4年に掛塚「田町」屋台の彫刻を完成させて引退した。
福田では初代天狗連,宮本八番組(旧む組),新町連,だるま連
→遠州っ子人,言葉,祭り,生活 ひくまの出版
浦部さん作の力神(個人蔵・年代不明)

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奥出多喜男(おくでたきお1898-1974)
奥出多喜男号=康運(こううん)
明治31年生まれ。愛知県名古屋市中村区花車町出身。幼少の頃より隣の小鳥町住人の堂宮彫刻師である伯父の酒井元次郎(蔵元)に師事し、神社仏閣関連の仕事に携わり腕を磨いたという。太平洋戦争による名古屋空襲で家を失い居を転々とし、昭和24年頃知り合いのつてを頼り遠州二俣に移住。ちょうどその頃新造された地元町の阿蔵「白山連」屋台の彫刻を任されたのが祭り屋台彫刻の手始めとなった。福田に作品が多く、日本の神話・故事・合戦物・昔話などを得意の分野としていた。
→二俣町阿蔵/白山連屋台
※1998/09/05(土)奥出家を訪問取材させていただき、息子の文男さんから貴重なお話を伺うことができました。ご協力ありがとうございました。
福田では宮組,おかめ連,新町連,十三番町

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小山広樹(こやまひろき1986-)
号=無し
静岡県浜松市東区出身
2004年京都伝統工芸大学校で木彫刻専攻
2007年岐阜県岐阜市の奥土居 浩氏に師事
2013年帰郷、浜松市東区の実家で工房を構え独立
→2019/05/19_訪問記
→2019/08/25_貴布祢西町組腰蟇股彫刻

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澤元清延(さわもとせいえん1985-)

静岡県磐田市出身
2003年富山県井波町にて澤義博氏に師事
2011年年季明けで地元にて独立
→2018/09/16訪問記
→澤元彫刻リーフレットPDF

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祥雲(しょううん)

→祥雲HP
→2001/07/24_訪問記
→2005/03/06_訪問記
→2010/04/24_祥雲展

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早瀬利三郎(はやせりさぶろう1897-1967)
早瀬利三郎号=清雲(せいうん)
名古屋の熱田区金山出身。尾張藩御用彫師の伝統を持つ早瀬長兵衛(彫長ほりちょう~八代目)門下の名人伊藤松次郎(彫松ほりまつ)の2番弟子として腕を振るっていたが、静岡県掛川市肴町の旧屋台(大正9年完成)彫刻の注文を受け出張した。その仕事の間にも他からの注文が多く入ってきたことから掛川で仕事をすることが多くなり、昭和初期に掛川の仁藤町に「彫栄堂ちょうえいどう」を構え遠州に定住するようになった。昭和15年~終戦まで浜松市肴町に、戦後に元城町へ移転。彫りの軽さとこなしの良さに定評があり、特に人物を得意としていた。
福田では宮本八番組,新町連
旧福田町ではこじまの木鼻

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早瀬 宏(はやせひろし)
早瀬 宏号=広雲(こううん)
父・利三郎の次男として掛川の仁藤町で生まれる(1933)。中学生の頃から彫刻を覚え始め、卒業して父の元で本格的な修行に入った。特に戦後は浜松が屋台建造繁忙期をむかえ、伝統ある尾張彫長(ほりちょう)系彫刻の名門として多くの屋台や神社仏閣の彫刻を担ってきた。平成元年に浜松市幸町に移転、平成4年完成の浜松市まつり会館展示屋台にも腕を振るった。「いい時代に巡り会えて多くの仕事を任せてもらうことができた。彫刻は軽い(繊細な)彫りが理想」という。
旧福田町では本田/ほ組
→まちかど_平成13年12月浜松信用金庫(PDF)

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降籏清二(ふりはたせいじ)

→2006訪問記
→2007/09/30_袋井市不入斗/浅間車屋台彫刻披露

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前島康利(まえじまやすとし1960-)
前島康寿号=成匠堂(せいしょうどう)
昭和35年(1960)生まれ。幼少の頃より彫刻に興味を持ち、中学3年のときに浜松市元魚町の浦部一郎氏を訪ねて彫刻師への足がかりをつかむ。高校に入ると材料を自費で購入してきては独学で彫刻を学び始めた。
本業は酒屋であるが彫刻師への夢は持ち続け、1997年特に作風の気に入った浜北市在住の仏師・雨宮國雄氏に弟子入り志願。外弟子として5年の修行を積んだ。磐田市掛塚砂町在住。すでに6台の屋台を手がけており、新造・修理に腕を振るっている。
旧福田町では「こじま」の持ち送り
→2009/05/24_磐田市堀之内新屋台披露
→JA遠州中央ときめきネットワークVol.153(2005年7月号)PDF

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松林 洋(まつばやしよう1958-)
松林 洋氏2003/05/01号=青山(せいざん)
昭和33年(1958)大須賀町横須賀東本町に生まれる。根っからの祭り好きで地元に強い愛着があり、生まれた意義は祭りに携わるためという信念を持っていた。高校在学中にNHKテレビに出演されていた彫刻師・浦部一郎氏の作品を見て、彫刻を通して祭りに関わっていくことを決意。卒業と同時に浦部氏を何度も訪ねるが断られ、富山県井波町の加茂蕃山(かもばんざん)師を紹介してもらう。そこで5年の修行をして彫刻技術を習得した後帰郷、再び浦部氏を訪ねて通いで彫刻の手伝いを2年ほどした後独立。地元に店を構え、念願の自町祢里彫刻も昭和62年に完成させた。「伝統的なものを洗練させ、なおかつ個性豊かで力のある作品を生み出して生きたい」と地元の祭禮文化調査研究などでも意欲的に活躍中である。
屋号=不流庵(ふりゅうあん)
旧福田町では大島

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宮崎政光(みやざきまさみつ)

→2007/06/02_作品展
→2008/08/24_作品展
→2009/05/17_寺社彫刻展
→2012/09/09_浜松市西区志都呂北組
→2014/09/21_磐田市白羽新屋台
→2015/09/27_浜松市参野町新屋台
→2016/04/29_木彫刻作品展
→2022/06/19_浜松市西区志都呂西組

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山田光雄(やまだみつお1926-2017)
山田光雄号=峨聖(がせい)
大正15年(1926)静岡県引佐郡生まれ。昭和16年に学校を卒業すると、当時浜松市肴町在住の早瀬利三郎氏に弟子入りした。戦後の浜松まつり屋台再建には師を助けて尽力、また千葉県成田山新勝寺本堂の彫刻にも参画している。浜松まつりは子供のお祭りであることから宗教色がなくわかりやすい日本昔話を主な図柄として取り入れ、中沢町の自宅工房で多くの作品を生み出した。写実性の高い彫刻として定評がある。平成5年には浜松市長より堂宮彫刻師として浜松市優秀技能賞を授与されている。2017年9月逝去。
旧福田町では昭和組,石田組
→2004/08/09_訪問記(各資料含む)
→浜松市公式YouTube

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《愛知県他》

阿部武夫(あべたけお)

愛知県豊川市の豊川稲荷のお膝元で三代にわたり堂宮彫師としてご活躍中の阿部豊雲さん。
2014/05/01訪問
→記事は編集中です

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岩田新之助(いわたしんのすけ1898-1982)
岩田新之助号=冬根(とね)
明治31年、名古屋の葛町(かずらまち)で彫刻師の家に5人兄弟の次男として生まれる。10歳で父親を、11歳のときに兄を相次いで亡くし、家督を継ぐため12歳で半田の新美常次郎(彫常)に弟子入りした。彫常の2番弟子として活躍し、兄弟子の岩本桑次郎(流張)らとともに一門に大きく貢献。昭和2年頃に独立し、名古屋の古郷町(ふるさとまち)に住居を構えた。遠州にも作品が多く名人として知られており、浜松市浅田町・龍禅寺町や植松町など多くの屋台に腕を振るっている。写真は昭和11年の彫常還暦祝いのときのもので、38歳頃と思われる。(半田市立博物館発行「山車彫刻の技2 彫常」より許可を得て掲載)
福田では奴連,ひ組

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江坂鐘平(えさかしょうへい1899-1982)
江坂鐘平号=なし
明治32年愛知県岡崎能見町のお菓子屋(餅屋)大阪屋の次男に生まれる。学校を卒業した頃近くに建立されたお寺の彫刻に興味を持ち、世話方だった祖父の薦めもあって当時岡崎市康生町の住人であった作者の堂宮彫刻師・中山由太郎に弟子入りした。20歳の兵隊検査まで修行して後に独立。掛塚横町の大孝建築・平野孝頭領との関係で遠州地方の屋台に作品が多く、掛塚貴船神社水屋の蟇股にも作品を見ることができる。また昭和35年建造の岡崎市松本町の屋台もこのコンビである。大黒とねずみを最も得意な図柄としていた。
福田ではい組,十四番町

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江坂兵衛(えさかひょうえ1928-)
江坂兵衛号=なし
福田ではい組,十四番町
訪問記~経歴まとめ2014/08/15

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→彫刻師 栗田剛(外部リンク)


近藤直登(こんどうなおと1949-)
近藤直登号=直人(なおと)
昭和24年(1949)に愛知県の三河一宮に生まれる。岡山県の大学時代に彫刻師・山本一雄(やまもとかずお)氏に巡り会ったことから彫刻の仕事に興味を持ち、生涯の仕事とするべく弟子入りした。山本氏は社寺や大阪の地車(だんじり)彫刻などを手がける腕のいい親方で、そこで10年間修行し昭和56年に独立。故郷へ戻って豊橋市下地町にこんどう木彫店を構えた。「かつては台湾、最近では中国製の安い彫刻に押され厳しい業界ではあるが他にはない個性のあるものを彫っていきたい」と日々創作活動に励む。
→こんどう木彫店HP
→ブログ・大本山永平寺名古屋別院 永平開山行状記図絵
旧福田町では旧新田組
→2002/05/01_訪問記
→2007/06/27_恵比寿屋台の経緯

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鈴木嘉一(すずきかいち1912-2003)
鈴木嘉一号=秀雲(しゅううん)
明治45年4月1日岡崎に生まれる。子供の頃から絵を描くのが好きで、創作の仕事に憧れていたという。当時の小学校を14歳で卒業すると、世話人を介して岡崎市東本郷の堂宮彫刻師・川辺哲二郎(かわべてつじろう~中山由太郎の弟子)に入門。厳しい徒弟制度のなかで7年間の修行をして年季が明け21歳で独立後、三河安城に住居を構える。祭り屋台は浜松市上新屋町(昭和54年完成)の屋台彫刻を同町から直接依頼されたのがきっかけで、その後も同大工(小池工務店)と組んで十数台もの実績を築いた。平成4年完成の浜松市まつり会館展示屋台にも腕を振るう。平成12年に引退。
旧福田町では南島,十五番町
→2001/02/02_訪問記

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志村桑次郎(しむらくわじろう1892-1974)
号=流張(りゅうちょう)
明治25年名古屋生まれ。志村家は名古屋の中区大須門前町の米屋で、末っ子であったことから好きな道に進もうと家を出て半田の新美常次郎(初代彫常=ほりつね)に師事。一番弟子として腕を振るっていたが大正8~9年頃福井県三国町「性海寺」の欄間彫刻のために出張。ところが地場産業である三国仏壇彫刻の後継者不足などの背景もあり、地元の要請を受けて三国に定住するようになった。号の「流張」は三国に住むようになってから付けたもので、尾張の流れを汲む彫師という意味である。堂宮から仏壇彫刻など幅広く仕事をこなし名人と謳われたが、83歳の時、浄応寺の欄間を彫っていて亡くなった。写真は昭和11年の彫常還暦祝いのときのもの。

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志村 孝(しむらたかし1920-2006)
号=流張(りゅうちょう)
大正9年(1920)福井県坂井郡三国町で生まれ、物心ついた頃から道具に触れ父桑次郎のもとで彫刻一筋に修行を積んできた。とくに戦後の浜松屋台復興期には彫栄堂(早瀬利三郎さん)の仕事を手伝うために父桑次郎と共に浜松に住み、昭和27年/相生町屋台を手始めに多くの作品を手がけている。昭和53年頃静岡県の修善寺温泉で痛めた腰の湯治中、遠州森町南町の大工・故寺岡勝郎氏と知り合ったことが縁で屋台彫刻の仕事を受けるようになったため、森町を中心に周辺地区にも作品が多く親しまれている。よく表記される「志村孝士」は孝氏自身の考案による見た目のバランスを考えてのことで、戸籍上の本名は上記の通りである。号は父を受け継ぎ2代目流張としている。
→2004/05/02_訪問記

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《MEMO》
・名古屋の昔の町名で、葛町は現在の松原1丁目・2丁目・正木1丁目。古郷町は現在の松原2丁目になります。
・明治45年は7月30日まで・大正15年は12月25日まで・昭和64年は1月7日まで
・職人さんにお話を聞いていると、皆さんこの仕事に誇りと情熱を持って取り組んでおられることがよくわかりました。彫刻の見方を教えていただいたり、作品の苦労話や興味深いエピソードなどを熱心に語ってくださいました。時代は21世紀になりましたが、職人さんが精魂込めて生み出した作品というのはいつの時代にも通じる魅力があるのではないかと思います。(2001/05/26)

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